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           メール・マガジン

      「FNサービス 問題解決おたすけマン」

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    ★第116号       ’01−11−23★

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     ヘレン・ケラー女史     

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●「もし三日間、

 

目が明いたら」という短い文章があります。 題が示す通り、視覚障害

者、それも奇跡の人、ヘレン・ケラー女史が書いたもの。

 

見付けたのは<人生を楽観せよ>という本の中。 ただし原典注記なし。

あまりにも昔のことで、どんな不安を抱いていたのか思い出せませんが、

心の補強材を常に求めていたことは確か。 それを読み直してみようと

思い立ったのは先夜たまたま、

 

NHKTV1<その時歴史が動いた 人生に絶望なし>で、久しぶりに

ヘレン・ケラー女史の心を学び直すことになったからです。

 

 

我が国の身体障害者福祉法の制定促進に女史が大きく貢献されたことを

この番組で初めて知った、とは私としたことが不勉強でしたが、そこに

散りばめられた女史の言葉には、やはり ウーン!   たとえば

 

昭和12年の初来日で盗難に遭い、現金と住所録を失った時の、

 「私は盗んだ人の事情に同情しこそすれ、その人を憎んだり、日本を

  誤解するようなことは毛頭ありません」。

三重苦の人が<健常者>を気遣って下さるとは、、 犯人よ、恥を知れ。

 

<事情>が何であれ、盲目の人から奪い取るなんて許せない、、 多く

の日本人が詫びの手紙を、中には金も添えて、女史に送りました。 で、

 「むしろこの出来事によって、日本全国の方々から大きな思いやりを

  寄せられ、また国民が互いに助け合うという日本独特の精神を見る

  ことが出来て本当に嬉しく思います。」

 

<日本独特>だったのか、、  今やその<日本>、廃れてしまったが、、

 

*   *

  

昭和23年、再来日の際、講演で

 「皆様の持っているランプをもう少し高く掲げて目の不自由な人たち

  の行く手を照らして下さい。」

 

<自分用>のランプも「少し高く掲げ」れば、身近にいるかも知れない

<明かりを必要とする人>が助かる。 大した努力や負担を要すること

ではない。 心遣い一つなのだが、それを近頃、学校も親も教えようと

しない。 <ランプ>の使い方も心得ないハンパ者の異常繁殖、、

 

そして女史は、ヒロシマ・ナガサキを訪問した後、

 「人々は苦しみもがきながらも、自分たちの傷については何も言わず、

  これほどまでに魂を揺さぶられたことはありませんでした。

 

  多くの苦しみがあったのに、人々は以前同様の愛情を与えてくれた。

  こどもたちの声に私は泣いた。 あの懐かしさをどう表現すべきか、

 

  広島と長崎を一生忘れない。 恐るべき状況にありながらも、みな

  なお与えようという気持ちを持っておられたのです、、、

  このような寛容さというものに対して私はどう応えれば良いのか。」

 

*   *   *

 

原爆ではないが東京その他の都市も焼き払われ、一般人が多数虐殺され

ております。 その割に我が国民、アッサリ水に流した(ように見える)

のは、本当に寛容なのか、<お国のため>で諦めたのか、何だか分から

ないけれどもとにかく、永きにわたって恨み続けることは滅多にしない。

 

ほかの文化との比較では、やはり珍しい傾向と言えるのかも知れません。

 

**************

 

 

 

●「もし三日間、、、」

 

に戻ります。 そういうわけで探し始めたのですが、<その本>、どう

したことか見付からない。 昔の本でもすぐ取り出せる、、 はずの私

でしたが、まことに遺憾ながら。  しかし、

 

<その文章>をお目にかけることは出来ます。 こりゃ忘れるわけには

行かないぞ、と何度かノートに書き写したのが残っているからです。 

 

以下、32行。

 

***

 

第一日目まず見たいのは、これまで親切と友情によって私の生涯を生き

甲斐あるものにしてくれた人々の顔である。 目という窓から友人の心

を見るのはどんなことであろうか、私はまだ知らない。

 

親しい友人をすべて招いてその人々の顔にジッと見入り、めいめいが内

に持っている美しさがどのように表われているか、心に刻み付けよう。

 

また、赤ん坊の顔も見たい。 人生の悩みを意識する前の、ひたむきな、

あどけない美しさを垣間見たいからである。

 

次に、人に読み聞かせてもらったことのある書物をじかに見たい。

それらは、私に人生の深遠な道を示してくれたものであるから。

 

午後は森でたっぷり散歩して、大自然の美しさを思う存分眺めて楽しみ

たい。 そのあと、日没の空に向かってお祈りをしよう。  その夜は、

多分眠れないことであろう。

 

 

翌日、私は夜明けと共に目を覚まし、夜が昼に変わる、あの胸をときめ

かさせる奇跡を見るのだ。  眠っていた大地を太陽が目覚めさせる、

その壮大な光のパノラマを畏怖をもって眺めることだろう。

 

その日は一日かけて、過去から現在にわたる世界を一通り見ようと思う。

まず、人類の進歩の絵巻を見るために博物館へ行く。  次に、芸術を

通して人間の魂を探りたい。 これまで触覚によって知った色々なもの

を、いま目で見ることが出来るのだ。 私の前には、一段と華麗な絵画

の世界が繰り広げられる。  その夜は、劇場か映画館で過ごしたい。

 

 

私は再び夜明けを迎える。 新たな喜び、新たな美の顕現を待ちこがれ

ながら。 第三日目の今日は、仕事に忙しい男達が出入りする実生活の

世界で暮らそう。

 

まず、人通りの多い街角に立って人々を見よう。 ほほ笑んでいる人を

見て、私は幸福な気分になる。 真剣な決意に溢れた顔をした人がいて、

私は誇らかに感じる。 また苦しみ悩む顔にも出会う。 私は同情する。

 

やがて見物の楽しみは終わりに近付く。  真夜中になれば、私は再び

永遠の闇に閉ざされてしまうのだ。 そして私は、いかに多くのものを

見逃してしまったかを悟ることだろう。

 

 

盲目の私は、皆さんにひとこと言いたい。  明日は盲目になるのだと

思って、目を活用すべきです。  楽しみと美のあらゆる面に、喜びを

味わうべきです。

 

************

 

 

 

●もし願いが叶えられたら、、、

 

と思うことはあっても、叶った時の感謝や喜びをこれほど具体的に想像

したことは、それまで無かったかも知れない。 これを読んで、自分の

念の込め方は不十分だった、と反省したのを覚えています。

 

それまでも<観察>型のつもりでしたが、ここに書かれたような見方で

対象に接してはいなかった。 目は心の、、 うーむ、私のは些か虚ろ

であったか。 人生の色々な部分での想いを振り返る気になりました。

 

学生だったとき、果たしてワクワクと勉強に励んでいたろうか?

職業人として、担当業務や周辺の人間関係にどう取り組んだろう?

 

人生の伴侶を得て以来、その人に感謝と喜びで接して来たろうか?

手に入れた<我が家>、磨き上げることを楽しんで来ただろうか?

そこでの子供達とのやり取りに、どのくらい心を込めたろう?

 

さらに女史の勧めに従って、

あと3日の命、という時、悔いを残さずにこの世を去れるだろうか?

心を常に、人生の喜びを感じ取るように機能させていただろうか?

 

 

世の大多数は<普通の人>。 即ち五体満足、機能は正常、のはずです。

が、せっかくのその機能、十分に生かして来た、と言えるかどうか?

 

日常、不満や不快を感じている人は少なくないが、もしかすると原因は

そこにある、、 と明快に教えてくれるのは(これはすぐ取り出せた!)

渡部昇一著 <人間らしさの構造>(産能大 1972年)。

 

その中の<5 機能快>にヘレン・ケラー女史の例が述べられています。

女史の自叙伝第三章からの引用もあります。

 

「、、 自分の思っていることがどうしても分かってもらえない時は、

 必ず癇癪を起こしました。 何か目に見えない手が私を押えつけて

 いるかのように感じました。  、、何とかして自分の思うことを

 伝達する手段に対する欲求が極めて切実になってきて、こういった

 ような癇癪の爆発は毎日、時として毎時間起こった、、」

 

これを教授は、

 

「、、目に見えない手によって押えられているような感じだった、と

 いうところに注目して欲しい。 自己実現を阻まれるということは、

 それだけの圧迫感を魂に与えるものなのである。

 

 、、サリバン先生について言葉を習うようになると、こういう癇癪

 の発作はぴたりと止まった。 潜在力を働かせること、天賦の機能

 を働かせることがいかに人間にとって重要なことか、、」

 

と解説され、その前段の

 

「、、人間の子供には、言語運用能力が先天的に備わっている、、、

 子供にとっては、話せるようになることは快感なのである、、学習

 のプロセスが快感そのもの、、 機能させるようになることは、、

 自己の可能性の実現なのであり、、 生き甲斐なのである。」

 

に対応させておられる。 教授は近頃TVに登場されないが、たとえば

あの<専業主婦>論争なら、子を作らず育てずの女性を応援する側には

回られないだろう。 天与の能力を十全に生かすことなく、何が充実か。

その種の女性たちにこの本、一読を勧めたいくらいです。

 

*   *

 

先頃ご近所のS夫人、テニスのコーチもなさる活発な方なのに、不測の

薬剤アレルギーで数ヶ月の入院生活を余儀なくされた。 そして退院後

の心境、「チリ取りと箒で家の周りを掃除する、というような<雑事>

ですら楽しくてたまらない。 それが出来ること、に感謝の念が湧く」。

 

<健康>で<普通>の人はそこら中にいます。 が、自分の機能を発揮

すること自体が喜び、とは知らずにいる。 気付くのはたとえば、

 

職を求めて歩き回る身になってから。 見上げるビルの中は、すでに別

世界。 面倒だったOA機器も、いまは触れたくてウズウズ、、 とか。

 

即ち些事、雑事も愉<快>であり得る。 厄介な事件なら機能の発揮が

もっと必要で、当然、より高度な<快>が得られる、、 はずです。

 

その意味で、<問題解決>は最高に愉<快>な場面だし、そこでの機能

発揮を助ける Rational Process は、いわば<機能快のツール>。

 

CMとしては 「 Rational Process は<愉快のツール>!」 かな?

 

*   *   *

 

前号にも関わりますが、働きたくても働く機会が得られない高年失業者

は、その意味で、いわば<機能快>不全病患者。 <これまでの経験>

という機能にこだわっていると発揮の機会は容易に得られず、<治療>

が難しいでしょう。  ならいっそ、

 

根源的に<人間としての機能>のレベルで模索すべきかも。 切り口を

変えると、見えてくるものも変わる。 <人間力>なら高年者、甲羅の

厚さは伊達じゃないのですから。

                          ■竹島元一■

   ■今週の<私の写真集から>は  ★ ポプコーン ★

 

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